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This is the archive for October 2010

2010/10/15

 料理をしていて醤油が切れれば、昔は隣の人に借りていたが、最近は車で店に買いに行く人が多いと思う。ただ、付き合いがあれば借りやすいだろう。時間とガソリンをよけいに使うことはないのだ。隣の人は持っているのだから。

 高校のPTA連合会の研修に参加したら、生徒たちの職業選択の為に警察官、美容師、医師、会社員等さまざまな職業についている生徒の親が講師となって、職務内容やその職業を選んだ動機を話す講演会を定期的に開いているという活動報告があった。それぞれの業界の有名な人に講師となってきてもらうこともできるだろうが、それよりもいつもクラスで会う友人の親(自分の親となることもある)の話を聴く方が、身近に感じて刺激を受けやすく、多くの気づきを得ることができるのではなかろうか。隣の友人(やその親)が有益な情報を既に持っているのだ。

 宗教団体等に所属し熱心に活動している人たちの集まりでは、自分の子供をいかにしてその団体の活動に参加させるかがよく話題になる。経営者の団体でも自社の事業を子供に承継させることも話題になる。そのために、本部の教育部門の人や有名な経営者を呼んで講話を聞くイベントをするための企画会議をしたりする。しかし、その会議に参加しているメンバーの中に、子どもが既にその団体の活動に参加していたり、事業を承継していたりしているのであれば、遠方から人を呼ぶための企画をしている時間に、団体会員同士、または経営者同士でワークショップを開いて、子どもとの
接し方等を開示し合う会を持った方が手っ取り早いと言えないだろうか。そのワークショップに同席している隣の人は、自分に必要な情報や体験を既に持っているのだ。

 自分に必要なものや情報を隣の人が持っているとしても、そのことを知らないと相互に利用しあうことはできない。相互に利用しあうためには、地域、学校、職場などで出会う人に関心を持ち情報交換することが大切だ。会合でも効果的な自己紹介をし、「自分が人にしてあげられること」と「自分が人からしてほしいこと」を相互に開示し合うことが大切だ。

 隣の人と言った時、「近くにいる他人」という意味で最も近い究極の隣の人は配偶者に他ならない。配偶者は、子どもを持つなど、男も女も自分ひとりではどんなに頑張ってもできないことを可能にしてくれる貴重な存在だ。他の異性に目が移って浮気して離婚すると、自分に必要な多くのものを既に持っている人を失うことになる。神学の世界では、夫婦がひとつとなった姿は神の似姿だという。配偶者は自分を完成へと導くためのすべてのものを既に持っているのかもしれない。

 イエス・キリストが「汝の隣人を愛せよ」と言ったのは、精神論として言っただけではなく、「既に多くを持っている隣人を愛せば得られることが多い」という意味を言外にこめていると解釈するのは考え過ぎだろうか。