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This is the archive for November 2009

2009/11/15

 物を売っても代金を払ってくれるか分からないし、代金を払っても物を渡してくれるか分からない。信頼できない者同士が売買行為をしようとするなら、物を渡す行為と代金を払う行為は同時であるのが良い。お金のことで騙されたことがある人には説得力のある考え方であり、民法はこれを「同時履行の抗弁権」と名付けた。

 一方、商品を売っても支払いを猶予してあげること(売掛金が発生)や、原材料を購入しても支払いを猶予してもらうこと(買掛金が発生)がよく行われている。そのような売買当事者間には、取引実績があるなどして一定の信頼関係があることが多い。このような「信用取引」は「同時履行の抗弁権」よりも暖かさを感じる。

 富山の売薬商が開発したとされる「先用後利」は、さらにお客さんを信用する。商品を無償で置いていき、再訪時に薬箱を調べて使用されている商品の料金をいただく。引っ越しされ連絡してもらえないと置いてきた商品は丸損になるが、そのリスクを冒してもお客さんを信用する。客にとっては信用されていることが心地よい。

 もっとお客さんの良心に期待する商法が出てきた。播磨屋本店が世界初との触れ込みで行っている無料カフェの試みだ。私は大阪の御堂筋を散策していたら、コーヒー0円の表示を目にして半信半疑で入ってみたら本当だった。コーヒー等の飲物と播磨屋本店のおかきを無料でいただける。不特定多数の人が繰り返し自由に利用できるところがすごい。

 このような取り組みをするのは地球環境問題を解決するためだという。地球環境悪化の根本原因は「人生は、人間の優劣競争の場である」と現代人が考えていることにあるとし、コーヒーを飲むときにそれに関連した様々な立場の人に配慮する経験をすることで、競争ではなく1人ひとりを大切に思う心を養ってほしいという考え方のようだ。ここまで来ると、売上げや利益はもはや手段であり、社会貢献が本業のようだ。

 良心に期待する商法は、人間の良心が働いていない社会の中で展開してもうまくいかない。人々の良心基準が高ければ、商品やサービスの原価のみを表示し、客が感じた感謝や満足の度合いに相当する金銭をプラスして支払うというシステムが一般化することも可能だ。そういう社会には争いも訴訟もないかもしれない。

 どのような商法を用いるかは、その人の世界観にかかっている。騙されないことを優先すれば民法の考えを優先するだろう。人と人が信頼し合って生きていくことを願う人は、無償カフェ等の良心の働きに期待する試みに感動する。

 もっと言えば、理想的な社会の到来を待って良心に期待する商法を行うか、それとも良心に期待する商法を開発し展開することで理想的な社会を構築しようとするかも、その人の世界観にかかっている。宗教家はそのことを、「天国に入ろうとする人になるのではなく、天国を作る人にならなければならない」と言った。
 精神的自由権は、国に不作為を求める権利です。「自由に考え、自由に表現し、行動したい」から、「国は規制をするな」というパターンになります。

思想・良心の自由

 「思想および良心の自由は、これを侵してはならない」(憲法19条)の「侵してはならない」とは、それが内心の領域にとどまる限り、それを禁止・制限することは許されないという意味です。

 ここで問題になるのは謝罪広告です。敗訴被告に対して、「陳謝します」という行為を国家が強制するのです。しかし、心の底では謝りたくない人物に、「陳謝の意を表明しろ」ということは、思想・良心の自由を侵害するとは言えないのでしょうか。

 判例は、合憲か違憲かは、謝罪広告の内容によりけりだと言います。学説の通説的な見解によれば、思想・良心とは、内心の全部のことではなく、世界観や主義・思想を全人格的に持つこととされます(限定説)。そうすると、謝罪広告の基礎にある道徳的な反省は、思想・良心に含まれることはありません。全人格的な世界観とは言い難いからです。したがって、謝罪広告は合憲であるという方向となります。

表現の自由

 「侵してはならない」「思想・良心」の自由はとても価値の高い人権ですが、表現の自由の問題も非常に重要な分野です。

 表現の自由は外面的精神活動の自由です。思想・良心の自由は内心の問題である限りは、他者とぶつかることはありません。しかし、表現の自由においては、外部に伝達するので、他者の人権と衝突する可能性があります。

 D・Hロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」を翻訳・出版した被告人らが、刑法175条のわいせつ文書頒布罪に問われ有罪となった「チャタレイ事件」(最判昭32・3・13)では、わいせつとは何かが問題になりました。裁判所は、わいせつを「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義的観念に反するものをいう」と定義しています。この作品は芸術作品だから出版してよいはずだという主張に対して、判例は、芸術性とわいせつ性は次元が違うと言っています。さらに判例は、「性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持すること」を刑法175条の保護法益とし、この法益が、表現の自由の価値に優先すると考えています。

二重の基準論と比較衡量説

 一般に表現の自由に代表される精神的自由は、経済的自由に優越するとされます。個人の尊厳により近く、したがって、例外的に制限される場合も、その合憲性の判定基準は経済的自由に比べて厳格になります。これを二重の基準論といいます。

 しかし、二重の基準論は一部を除き判例理論ではありません。表現の自由等の精神的自由について判例は、比較衡量説をとります。規制により失われる利益と得られる利益を比較し、後者が大きければ合憲という考え方です。