法改正を推進する側の理由としては、「家族のあり方の多様化に伴い戸籍や世帯の意味がなくなってきており、個人単位で管理する方が手続き上便利だ」「結婚により姓が変わると仕事の継続に支障をきたす」等が言われており、法改正に反対する側の理由としては、「家族の一体感や絆が損なわれる」「子どもの精神の不安定を招き教育上よくない」等が言われている。
私は夫婦別姓に反対だ。より根本的なところから夫婦のあり方を考えてみたい。
「全体は部分の集合にまさる」と言われる。夫婦とは、夫という実体と妻という実体の二つの存在の単なる寄せ集めではない。両者の関係性、とりわけ補完性を含んだものと考えられていると思う。
「名は体を表す」と言うが、夫婦が同じ姓を名乗れば、夫婦間の補完性を保持しやすくなるだろう。補完性は夫婦相互の愛と尊敬の基盤であり、それが実現する家庭でこそ子どもの情操が育つ。夫婦を別姓にすると、そのような目に見えない貴重なものを失いかねない。
こう言うと「韓国などではずっと昔から夫婦別姓でありながら豊かな文化を築き先進国の仲間入りをしているではないか」という反論が聞こえてきそうだが、日本と韓国では事情が違う。韓国では「族譜」という一族の家系図が何物にも替えがたい貴重なものとして先祖から受け継がれてきており、先祖からの血統をとても大切にしているという。結婚しても夫も妻も姓を変えないというのは、出自を大切にする思いの表れなのだろう。
また、女性の真の自立という意味でも、夫婦は同じ姓の方が良いと思う。女性の自立というと、唯物的な考え方をする人は社会的立場や経済面のことしか考えない。貧困の中に暮らしながら神へ至る道を説いたイエスキリストや、托鉢をして肉の糧を得ている僧侶は精神的に自立していないとでも言うのだろうか。けっしてそうではない。人々に福音を知らせるとか信者に功徳を積ませるという自分の役割に没頭し、自己の経済的安逸を求めない心はとても崇高であり、自立していると言えるのではなかろうか。
キリスト教では、「男は神のかたちであり栄光である…女はまた男の光栄である」(1コリント11.7)とあるように、男と女の価値は平等ではあるが格位は違っていると考える。つまり、神からの愛はまず男に、そして男から女に流れるのであり、愛に対して返す美は女から男に、そして男から神に返すものなのである。「男の陰になり、男を後ろで支えながら、それでいて自分を貫いて生きていく。自分を男に託して生きていく。それは度胸のある強い女にしかできないことなのです」(橋田壽賀子著『夫婦の格式』)。自立した強い女は、夫の姓に守られ夫の姓を用いて賢く生きていくのである。
Posted by oota at 06:07 PM. Filed under: 随想・評論(平成21年)