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This is the archive for September 2009

2009/09/15

 幼子が親とともにいたり、家族が話し合う場にいる風景は日常よく目にすることなので、ただそこにいるだけの幼子が何か特別のすごいことをしているとは普通思われない。しかし、人間は満一歳にもなれば、親などの周囲の人々が話し合っている日常的なことは何でも分かるし、三~四歳にもなれば誰でもことばを話せるようになることを考えれば、家族のそばにいるだけの幼子の脳の中では、めまぐるしくことばの意味の受容と検証がなされていると推察できる。

 人間はことばを学びことばと共に生き、新たなことばを作って文化を創造し思索を深めていく。とともに、ことばには人間の生死を左右する強烈な力がある。倒産の危機に出会い死を思った企業経営者は、「七転び八起き」「障害や困難は成長のチャンスである」等のことばに励まされて、また歩き始める。逆にことばによるいじめを受け自ら命を断つ子どもが後を絶たない。意味や思いの空間に網の目のように張りめぐらされたことばによって、人間は傷ついたり希望を見出したりしながら人生を歩んでいく。

 このように強烈な力を持つことばの使い方を誤ってはならない。人間は誰しも無限の潜在能力を与えられており、環境さえ整えば誰もが天才的な能力を発揮する。しかし、生育過程で周囲の人々から心ないことばや否定的なことばをかけられると、自分自身で自己の限界を設定し、自分で自分の可能性にふたをしてしまいがちだ。

 その解決策としては、自分の将来のなりたい姿等をあたかも現在そうであるかのようにことばで表現すること(アファーメーション)がとても効果的だ。「今日という日は神が作りし日なり。我は歓喜し我は感謝す」「私は健康だ。私は幸せだ。私は素晴らしい。」等の有名な言葉を毎日繰り返し飽きることなく言い続けていると、実際にそのようになることが多いという。

 会社の社長になりたければ、「私は○○会社の社長だ。従業員と社会のために毎日誠実に長時間働き多額の報酬を得ている。従業員も取引先の人たちも私が社長でいることを喜んでいる」というような言葉を繰り返し言えばよい。律儀な人は、そんな事実でもないことは言えないと言うかもしれないが、アファーメーションはことばを用いた道具にすぎない。道具が事実であるとか虚偽であるとか言っても意味のないことなので、割り切ってやってみることをお勧めする。

 自分の倫理観や価値観についてのアファーメーションを自ら作れば、自分が家庭や社会等でどのようにふるまうかを誓約することになり、自分を精神的に高めることになる。聖書にあるように、神は自己に似たものとして人間を創造されたので、人間は神の創造性に似て創造性を持っている。神がことばで被造世界を創造されたように、人間もことばで自己創造ができるのだ。ことばが持つ強い力をよく知り、それを生かすことができれば、人生は大きく変わりうることを知ることがとても重要だと思う。
外国人の参政権・社会権

 人権の享有主体について考える場合の出発点は、やはり人権は究極の価値であるということです。つまり、生まれながらに当然に持っている基本的な権利は、日本人とか外国人という差別にはなじみません。しかし、外国人に対して日本人同様すべての人権が保障されるわけではありません。

 例えば国政選挙についての選挙権は、外国人にはありません。「国民主権」という憲法の大原則に反するからです。判例は、国会議員選挙に関する選挙権を外国人に付与することは憲法をもって禁止されていると考えています。「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」(憲法15条1項)に言う「国民」とは、文字通り「日本国民」のことです。

 しかし、地方議会議員の選挙権を外国人に与える立法をしても憲法に違反しないのであって、そういう措置を講ずるか否かはもっぱら立法政策の問題だと判例は言います。国政選挙については国民主権の原理から外国人の関与は許されないが、地方自治の場合は国政との「かかわりが薄い」ので、永住者等その居住する地域と密接な関係をもった外国人の関与を認めても、国民主権の原理に違反しないというのがその理由です。

 一方、社会権も参政権と同様に前国家的な権利ではありませんから、日本国憲法は外国人に対して社会権を保障するものではありません。社会保障の給付を行うにあたり、自国民を在留外国人より優先することは、憲法上許されるのです。ただし、判例は、法律をもって外国人に社会権を保障することが、憲法上禁止されるものではないとしています。

外国人の自由権

 自由権は前国家的な人権・天賦の人権です。したがって、その性質上、外国人にも保障されるはずです。しかし、ひとつの例外があります。

 外国人の日本国への「入国の自由」は、憲法上保障されません。その根拠は国際慣習法にあるとされます。国際テロリストとして指名手配中の人物は、その素性が分かれば入国が拒否されるのは国家の安全保障のために当然のことです。判例は、憲法22条1項に定める居住・移転の自由は、日本国内での話であり、外国から日本国への移転の自由を含むものではないと判示します。一方「出国の自由」は制約条件なく認められています。

 それではいったん入国した外国人に「滞在の自由」はあるのでしょうか。アメリカ国籍のマクリーンという人が、在留期間1年の許可を得て入国しました。1年経過後、在留期間の更新を申し出たところ、当時の法務大臣が、マクリーンが反政府運動をしたことが許せず、更新を不許可としました。マクリーンがこの不許可処分の取り消しを求めて裁判をしたところ、判例は、外国人の在留の拒否は国の裁量事項であり、外国人にはわが国に在留する権利が憲法上認められているわけではないと判示しました(マクリーン事件)。

 「再入国の自由」についても、外国人登録法による指紋押捺を拒否していたアメリカ国籍の女性の再入国を認めなかった当時の法務大臣を勝たせる判例が出ています(森川キャサリーン事件)。

 外国人のほかに、人権の享有主体を考える際の論点としては、法人の人権、天皇・皇族の人権・未成年の人権が問題になります。