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This is the archive for February 2009

2009/02/15

 企業の販売戦略にプッシュ戦略とプル戦略というのがある。家庭や会社を訪問して商品やサービスの説明をして購入や契約を迫るのがプッシュ戦略であり、テレビ・新聞等各種媒体で商品やサービスの優秀性をアピールして客自身を購買行動へと駆り立てるのがプル戦略である。前者は「押し」のイメージがあり後者は「引き寄せ」のイメージがある。広告費をあまりとれない中小企業では、プル戦略を取りたいと思っても取れないと思われがちだが、やり方次第でうまくいく。

 企業の社員研修の指導や講演の依頼で引っ張りだこの元中学教師原田隆史氏は、社員の「直接的努力」とともに「間接的努力」の重要性を説く。直接的努力とは、営業員であれば販売や契約に直接結び付く電話かけや訪問の件(軒)数を多くすること等であり。間接的努力とは、お客様が同じ注文をするのであれば別の人ではなく自分(自社)に注文してくれるように自分の教養を高め人間性を磨くことだという。物不足の時代ならいざ知らず、物余りの現代では商品やサービスの性能や役割と同等に、ある場合はそれ以上に商品やサービスを紹介する人がどのような人なのかが問われるだけに、原田氏の説には説得力がある。

 あるスーパーでは、まず従業員が果物を試食して時期早尚で味がその果物の最高の味に達していなければ、そのことを率直に知らせ、その誠実さが受けて売り上げを伸ばしている。スーツを買うにしても、量販店では複数の中から選ぶというイメージだが、個人商店であれば、どういう状況や場面で着るか、どういうネクタイを合わせ用いるかまで店主が聞いて選んでくれるので顧客満足が高く、多少値段が高くても経営が維持できる。お客様に役に立つことをエピソードにして継続して伝える努力をすれば、温かさが伝わり、そのうえで商行為も継続できるのではなかろうか。

 このような努力とともに、新鮮な情報を適宜伝え、さらに相談を受けたときに解決策を提示できる専門知識と人間的包容力を持てば、お客様の方から連絡をくれたり出向いてくれたりする。間接的努力を継続して行っていれば、資本が少なくてもプル戦略がとれるのだ。

 お客様を引き寄せるプル戦略はもともと男性より女性の方が得意なのではなかろうか。伴侶を得るとき、一般的に男性が女性に結婚を申し込むことの方が女性が男性に申し込むことよりも多い。男性はプッシュ戦略を取ることが通例だ。それに対して女性は美しくなることに多大な努力をし、男性を引き寄せる。寄ってくる複数の中から自分の選択基準に合致した人を選択するというプル戦略を取っている。

 企業経営者はこのような女性の生得的な知恵を生かして、間接的努力を社員が競ってするような組織風土を作り上げていくことができれば、昨今の不況の中でも差別化に成功して生き残っていけるのではなかろうか。
 ユダヤ人は祖国を追われたり大量虐殺されたりという歴史を持っており、身の安全には高いコストがかかることを覚悟しているのに対して、日本人は平和な別荘でおかいこぐるみで育てられ、秀才だが世の荒波は知らず、安全と水は無料で手に入ると思いこんでいます。しかし、毎年季節に合わせて同じように行われる稲作に千数百年にわたり従事し徹底的に訓練されたおかげで、定めた一定期日から逆算して秒刻みのスケジュールでことを運ぶという特殊技能の持ち主であると、両者を比較します。

 日本人は「人間とはこうすれば相手も必ずこうするものだ」という「理外の理」を信じ、「人間性」「人間味」「人間的」なるものが法律よりも優先される「法外の法」が一種の宗教的規定となっており、日本人はすべからくそのような思考方式を持っている「日本教徒」であると言います。日本教に神学はなくあるのは人間学で、聖典は日本国憲法であり、天皇は日本教の大祭司だとします。

 一方ユダヤ人はその律法に従い、食事の回数を減らしてでも全収入の十分の一は神殿に納め、甚だしきは殺されても安息日には動かないくらい律法を守る民だとします。それは、ユダヤ人は律法を守ることにより神の養子としてもらうという契約を結んだからであり、契約を守るとは律法を一点一画まで正確に守り抜くことだからだと言います。

 反乱軍の主領として敗死したのに立派な銅像が立つ、日本教の「殉教者」西郷隆盛の「天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以って人を愛する也」のことばは、ユダヤ教のラビの言葉に通じるものがあると類似性を指摘しながらも、思考様式は大きく異なっているとします。

 聖書や論理学に慣れ親しんだユダヤ人は、言葉とは本来数式のようなもので文章とは言葉の数式のようなものだと考えているとします。一方、日本人は、日本語の単語が豊富多彩で一語一語が示す範囲が非常に狭いので、ユダヤ人のように具体的なものの言い方をせず抽象的な表現をしても、実際の問題を処理し日本社会を運営してこれました。

 いわば論理性以上に「知的容姿」が大切にされる日本では、うっかり西欧的思考を加味したりすると全く意味の通らない珍語、珍文になってしまいます。例えば、「目には目を、歯には歯を」という日本人によく知られた言い方の原典である旧約聖書の該当部分は、どう読んでも「人の目や歯を損傷したら自分の目や歯を損傷して償わなければならない」という償いの論理としか読めないのに、日本では復讐の論理として広く解釈されています。これは一例にすぎません。

 著者は、日本教は信徒自身が自覚し得ぬまでに完全に浸透しているので、世界で最も強固な宗教であると指摘しています。私は本書を読み進むうちに、日本人は世界のさまざまな教えを寛大に受容してきたとよく言われますが、日本教に合致する部分を取捨選択してきたにすぎないのではないかと思い始めました。

 本書の中で著者は自分を日本語が話せるユダヤ人であると紹介しています。周知のように著者は日本人の山本七平氏(山本書店店主)であり、本書を説得力あるものとするための演出をされたのではないかと思います。