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This is the archive for August 2008

2008/08/15

 代理人という以上、多少なりとも自分の意思で判断する裁量の権限を必要とします。何から何まで本人が決定し、その決定された意思をただ先方に伝え、先方の意思表示はそのまま承ってきて本人に伝える、というのでは代理ではありません。それは使者(伝達機関)です。

任意代理と法定代理

 AはC所有の家屋を買うことをBに委託して、Bを代理人とし、委任状を渡しました。BはCのところに行って委任状を示し(Aのためにすることを示し、効果はAに帰属することを明確にし)家屋を点検したり、代金の額やその支払い方法などを交渉し、売買契約を締結します。契約書を作成するときは、買主側はAの代理人Bと記載し、Bが署名捺印します(A自身出かけてAが署名捺印することもあります)。これが任意代理の一例です。任意代理は本人が代理人に「代理を頼む」と言い、代理人がこれに対して「承知しました」ということで始まります。体が1つしかない本人の活動範囲を拡張すること(私的自治の拡張)が目的です。

 これに対して、法定代理は本人が代理人に依頼していないのに代理権が発生するのが特徴です。先ほどの例ではAが未成年者でBが未成年後見人という場合、Bの行う代理行為のやり方は同じですが、契約証書にA自身が署名捺印した場合、未成年後見人Bの同意があったことを明記しておく必要があります。

表見代理

 任意代理では代理権の範囲を自由に定めることができます。だから、代理人と取引をする者は、単に代理人というだけでなく、その事項についても、はたして代理権があるかどうかを確かめないと危険です。慎重な本人は代理権について種々の制限をつけるかもしれません。それは代理人と本人との間でされることで、相手方には良く分かりません。代理人はそんな制限を無視して、いかにも無制限な代理権があるような顔をするかもしれません。そんなときにも、常に相手方には代理権の範囲を調べる義務があるとするのは無理であり酷です。そこで民法は「取引の安全のために本人の利益を犠牲にして、相手方を保護する制度」(表見代理の制度)を設けました。

 具体的には、本人が相手方に対して代理権を与えたと表示した人が相手方と取引をしたら、実は代理権を与えていなかった場合(代理権授与の表示)、本人は代理人に対して土地を貸す約束をする代理権を与えただけなのに、代理人が相手方との間で土地を売る契約をしたような場合(権限外の行為)、本人が代理人に財産の管理に必要な代理権を与えておいたが、都合があって代理権を取り上げた後に、依然として代理人であるとして相手方と代理行為をしたような場合(代理権消滅後の関係)があります。

 このようなとき、相手方は真実代理権があると信じ、かつ、信じたことに過失がない場合は、表見代理の効果として、本人は代理行為から生ずる全ての効果が帰属することを拒みえません(代理権授与の表示の場合のように、相手方に誤信を起こさせたことに関する本人の過失を必要とする場合もあります)。

(我妻榮『民法案内2民法総則』勁草書房を参考にしました)
 キャベツの葉の上を動き回る蝶の幼虫は普段、2次元の平面世界の中で生きている。彼が3次元の立体世界を知る方法は2つある。1つは3次元世界で動くものの影が2次元世界に投影されたときに、察知能力があれば2次元世界以外の存在を察知することができる。もう1つは、幼虫自身が脱皮して蝶となって3次元世界に羽ばたくときである。未知の世界を知って新しい人生(蝶生)が始まる。

 世界中から注目されている理論物理学者リサ・ランドール女史(ハーバード大学教授)は、素粒子の共同研究をしていた時に、原子核を構成する素粒子の中にこの世界から姿を消すものがあるという矛盾にぶつかった。その解決のためわれわれの世界を取り囲む別の次元があると仮定し、その形を特定するための試行錯誤を繰り返した。その結果、その異次元世界はわれわれの3次元空間を取り巻く巨大な時空であることを理論上立証したという(『異次元は存在する』NHK出版)。

 われわれはとかく自分が生きている世界がすべてであって、その世界における常識で物事を判断してしまうことが多い。リサ女史の研究発表は、われわれは何に取り囲まれているかわからないし、われわれの世界の運行を規定する原理原則が何であるかが完全に分かっているわけではないことを想起させてくれる。蝶の幼虫のように、われわれ人間にも全く新しい驚きの世界が待っているかもしれない。

 このような観点からすると、従来の科学の思考の枠組みから、未知なるものを一刀両断に否定してしまうことは、新しい可能性の芽を摘んでしまうことにならないだろうか。

 読売新聞夕刊(平成18年10月2日)では、日本物理学会の発表会のようすを報告している。この発表会では、「言葉の意味が水に影響を与える」という説の発表に対し、それは「科学ではない」との批判が相次いだという。取材した記者は「科学ではない」との主張ばかり紙面に載せ、「ニセ科学」に警戒を呼び掛けているが、バランスを欠いていないだろうか。「言葉の意味が水に影響を与える」という話は、一部の学校教員が道徳の授業や生徒の言葉づかいの指導に用いているだけに、それを阻止する結果にもなりかねない。

 「生物でないただの水が、人間の言葉の意味に反応するというのは、即座に笑い飛ばす程度の話」だとする学者がいるようだが、この分野の研究において、将来コペルニクス的転回がおこり、「水が人間の言葉の意味に反応するのは当たり前」になる時代が来るかもしれない。

 いまだよく分からないこと、特に良心が受け入れたいと思いつつ証明ができていないことに対しては、その時点に達している科学の水準を絶対的なものとして決めつけるような判断をすることは控えたいと思うが、いかがだろうか。