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This is the archive for June 2008

2008/06/15

 物の価値とは、それを手に入れたり作ったりするのに要する時間(労働時間)で決まるとマルクスは言った。この説が間違いなのは明白だ。海に潜る海女さんが海底から取ってくる貝は大きくて中身が詰まっていれば価値が大きいが、同じ時間をかけて取って来た貝が小さくて中身が詰まっていなければ価値が小さいことを考えれば、すぐに分かることだ。

 物の価値の本質は、それがどれくらい人間の役に立つかという、そのものが持つ意味や役割にあるのであって、投入する時間の大小(強度)で価値が決まるわけではない。

 子どもが勉強する意味が分からないと言ったら、親はその子の適性を見極めて、「興味が持てる教科や分野を一生懸命学んでその道で一流になれば人の役に立てるし経済的・精神的に自立できる」ことを説明して、社会における自分の役割や意味を説明してあげるのが良いと思う。高い点数や有名校に入れることにこだわりすぎて、点数という一元的評価基準の高さ(強度)だけを要求すると、子どもは優越感や劣等感を感じるだけで、共感力や自立への精神的基盤が育ちにくい。

 社会学者の宮台真司という人は、「生きることに意味はなく生き続ける理由もない」とし、生きる意味を求める生き方から離脱して快楽の強度を求める生き方を勧めている。また、「女子高生の援助交際は『キツイ学校的日常を潰されずに生き抜く知恵』である」と評価している。彼の若者に対する影響力は大きく、複数の人が彼の言葉によって人生の無意味感を強め自殺しているという(『宮台真司をぶっとばせ』、コスモス・ライブラリー発行)。

 言論の自由が保障されている日本で宮台氏のような人が現れてもやむを得ない。人は、人生で何に出会うか分からないのだから、宮台氏のような考え方に出会っても正しい選択ができるようになっていることが大切だ。「人のために生きて人が喜んでいると嬉しい」という感性を小さい時から身につけさせることができれば、自分という存在の社会的意味を認識しやすくなる。そうすれば悪魔的な言辞に遭遇したとしても誤ることはない。

 さらに言えば、人生の意味はどのように人の役に立つかという社会的意味だけではない。人間としての尊厳性や自分に課せられた運命に対する姿勢等に関連した霊的な意味もとても大切だ。「人生に意味があるか」というテーマから「人生にどんな意味があるか」というテーマに関心を移し深めるためにも、たとえば「私の考える『サムシンググレート』」というようなテーマのワークショップなどを行って、人々の霊的価値観に触れるという試みなどが有益ではなかろうか。

 人生の価値が強度で決まるような世界は、一元的な評価基準が支配するさつばつとした世界だろう。人生の社会的・霊的な意味が顧みられてこそ、お互いに喜びながら高め合うことができる豊かな世界となるのではなかろうか