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This is the archive for November 2007

2007/11/15


第五の原則
「空中戦」を「地上戦」に落とし込む
記録をとらないと議論は迷走する

 「書きながら話し合うこと」には次のようなメリットがあります。
①議論のポイントわ分かりやすく提示できる
 途中から議論に参加した人でも、それまでの経過が一目でわかります。
②議論のポイントに意識を集中させる
 ホワイトボードに書きながら話し合うと、ホワイトボードが話し合いの場となり、論点からの脱線が少なくなります。
③発言を定着させて安心を与える
 自分の発言が記録されると場に受け入れられたという安心感を抱きます。
④発言を発言者から切り離す
 発言者に対する反発がある場合、意見を記録してしまえば、コト(発言)とヒト(発言者)が切り離され、冷静に議論に集中できます。
⑤議論に広がりを与える
 書かれた言葉や図形に触発され、新しいアイデアが生まれやすくなります。
⑥共通の記録として残す
 デジタルカメラで撮影してメールで配信すれば、議事録の代わりにもなります。

第六の原則
「自分の都合と他人への配慮を両立させる」
全員が満足するコンセンサスを作り上げる

 話をまとめることを考える際に、「どうやって最終的な結論を決めるか?」という意思決定の問題は避けて通れません。リーダーが独断で決めるのも一つの方法です。それとは逆に全員が一致するまで議論をするというやり方もあります。中間的なやり方として多数決という方法もあります。とことん議論したうえで、最終的な判断を誰かに任せる方法もよくとられます。たくさんある意思決定のやり方の中で「コンセンサス」による決定が本当の意味の合意形成といえます。

 少なくとも消極的には全員が賛成しており、積極的に反対する人がいないという状態がコンセンサスです。コンセンサスでは最後の一人が納得するまで粘り強く話を続けていく必要があります。逃げたり先送りしたりせずに、限られた情報の中で一番ベターな答えを出すように努力します。そのため多くの時間とエネルギーを費やします。ところがいったん結論が出れば、全員が賛成しているため、実行段階でのやる気が他の決め方と比べて全然違うのです。

 コンセンサス作りをする際に、意見の対立は避けて通れません。和を尊ぶ日本人は対立が苦手ですが、対立はあった方が対立を解消しようとするあらゆる可能性が検討され、結果的に誤りの少ない質の高い意思決定ができます。

 対立は「ピンチ」ではなく、創造的なアイデアを生み出す「チャンス」です。その際、「自分の都合と他人への配慮を両立させる」という態度が欠かせません。対立している相手は敵ではなく、同じ目的をもった仲間なのです。対立解消は嫌々やる厄介な仕事ではなく、共通の目的をめざした創造的な協働作業なのです。互いの主張の内容と背景(理由)を共感的に理解したうえで、両者が一致する目標(目的)を見つけ出すことができれば、創造的なコンセンサスを得ることができるでしょう。

(堀公俊『「話し合い」の新技術』プレジデント社を参考にしました)
 今日の日本に熱心で優秀な官吏がいることを否定するものではないが、長期的・哲学的視点を欠いた施策がよく目につくのも事実である。

 中央教育審議会は「ゆとり教育」が行き詰ったことに関連して、授業時間を減らしすぎたと自己批判し、反省の姿勢を明確に打ち出した。反省点を具体的に示さなければ方針転換の理由が学校現場に伝わらないと判断したのがその理由だという。「過ちを改むるに憚ることなかれ」の諺にあるように、姿勢の明確化を歓迎したい。
 
 同じように、今日の青少年が性のモラルを喪失し軽率な性行為に至ることが多くなった主要原因のひとつが、戦後純潔教育委員会を作って青少年の純潔を守ろうとした当時の文部省の信念が弱く、途中で投げ出したことであることを明確に表明することができれば、新しい対策も考えやすくなるのではなかろうか。

 厚生労働省の医療や福祉に関する一連の施策にも哲学が感じられない。

 人間の生死の問題を、とにかく命があればよいというようなヘレニズム的観点だけからしか見ていないように感じる。文明の興隆は、ヘレニズムと、人間の物質的欲望やヒューマニズムを無条件では良しとしないヘブライズムの両方がバランスよく存在して、初めて成し遂げられることを見失っているとしか思えない。

 拓殖大学の渡辺利夫学長が「老化現象を生活習慣病と称して国民に検診を強要し、死の観念を希釈させて人間が幸福に生きられるとは思えない。むしろその逆が真実なのではないか」(産経新聞「正論」、平成18年12月14日)と述べておられるが、全く同感だ。

 富山市の施策にも哲学が感じられない。

 私は、平成18年に答申された富山市の総合計画を審議する委員会の公募委員として議論に加わった。初めての経験であり熱心な議論がなされるものと期待していた。「アメリカでは、青少年のモラル向上のために街ぐるみで月間の徳目を決めて人格教育運動を推進している市があるようだ。富山市でも検討してはどうか」などと提案したが、実現可能性を検討するという雰囲気はなかった。

 市当局の方であらかじめ基本計画ができていて、委員の意見は部分的な修正や追加に用いられるにすぎないのではないかと想像してしまう。原案自体を委員たちで作り上げるゼロベースから始める手法をとらない限り、新しい風は吹きこめないと感じた。

 私は、行政等の社会の公益を担う部門は、国防と外交を除いて、民と官が協働して推進することを原則にするような、大胆な発想があってもよいと思う。指定管理者制度等、官業の民間への開放は始まったが、企画等行政の最初の段階から、民の息吹と知恵を加味して協働するようにしてはどうか。そうなれば、某代議士が某省を念頭に「忙しいふりをするのに忙しい」と指摘するような現状も改善されるのではなかろうか。