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This is the archive for April 2007

2007/04/15

類推解釈と反対解釈

 「馬つなぐべからず」という立札がある時に、牛はつないでもよいでしょうか。他人を殺した者は「被害者の父母、配偶者及び子に対しては慰謝料を支払わなければならない」という規定がある時に(民法711条参照)、舅・姑に対しても慰謝料を支払わなければならないのでしょうか。

 牛はつないでも良いと解釈し、舅・姑に対しては責任がないと解釈するのが反対解釈であり、牛もいけないと解釈し、舅・姑に対しても責任を負うべきと解釈するのが類推解釈です。

 ある規定について類推解釈とすべきか反対解釈とすべきかは、その規定が網羅的、限定的なものであるなら、反対解釈をすべきであり、重要なものの例示的なものであるなら、類推解釈をすべきだ、とは言えます。法律の条文となると列挙は制限的なことが普通だということで、反対解釈をすることが多いものの、法文を作る際に考え漏らされたものもあり、また予想されなかったものが後に生ずることもあり、常にそうすべきだと決める訳にはいきません。

 つまり、規定の文字だけを根拠にして論争しても水かけ論になります。これを解釈するためには、その規定の立法の理由を検討しなければなりません。

類推解釈と拡張解釈

 類推解釈は、結果において条文を拡張したことになるから、拡張解釈の一種と考えても良いのですが、普通には拡張解釈は、文字の意味に含ませる場合であり類推解釈は、文字の意味に含まないものに拡張する場合です。

 前号で例示した「電気を盗むことは窃盗か」というテーマの場合、財物のうちに電気を含むと解釈するのが拡張解釈であり、財物には電気を含まないが、瓦欺を盗むのに準じて窃盗とすると解釈するのが類推解釈です。いずれの解釈によっても同一の結果が得られる場合が多いので、いずれであるかをやかましく言う必要はないと言えるでしょう。刑法では、類推解釈はできるだけ避けるべきだということが考えられねばなりません。

立法の理由が類推の根拠

 類推解釈について最も重要なことは、いかなる理由によって類推すべきかという点です。

 「馬つなぐべからず」とあれば馬をつないで悪い理由は、馬を離れた多少とも一般的なものでしょう。例えばその木を動揺させていためるとか、糞尿して困るとかです。そうすると、その一般的な理由が牛についても同様なら、類推することになります。もしそうでなくて馬を禁じていたのが、いななくためとか蹄で蹴るだけのためなら、牛については反対解釈をすることになります。

(我妻榮『民法案内1私法の道しるべ』勁草書房を参考にしました)
 パスカルは『パンセ』の中で「人間は一本の葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である」と述べた。考えることこそ人間を人間たらしめるものだと言いたかったのだろう。

 考えるために最も重要なことは、読むことだ。読むことで知識を得、想像をめぐらし、人の人生まで追体験し、生きるエネルギーを得る。書くことも大切だ。考えたことの筋道を整え、書いたものを見ながら、更に思索を深めることもできる。

 先日、衆議院議員の岩國哲人氏の講演を聴き感銘を受けた。今年の3月までの十年間、毎週政治的主張や国際会議の報告、随想などを執筆し、「一月三舟」という名前のコラムとして「日本海新聞」や「大阪日々新聞」に掲載したという。

 同氏は、平成元年に出雲市の市長となり、市役所つまり「市民のお役に立つ所」と名乗り、住民サービス業と言うのなら、土曜日も日曜日も開けないといけないし、デパートやショッピングセンターの中にも店を開けなければならないと主張し、その通り実行した。このような実行力は、おそらく出会ったアイディアに筋道と輪郭を与える同氏お得意の「書くこと」を繰り返すことによって、形成されたのかもしれない。

 人間にとって「書くこと」は、人間の尊厳性や魂の問題であると認識させてくれるのは、「銀の雫文芸賞」を創設した雫石とみ氏(平成15年2月8日、享年91歳で死去)だ。

 同氏は明治44年、宮城の貧しい農家に生まれた。父は炭坑で働き、母も土木労働者だった。貧乏で学校にも十分通えなかった。相次ぐ両親の死後上京し、日雇いで生計を立て、結婚して母となるが戦争で全てを失い、天涯孤独の身となった。左目を失明し、女性浮浪者のための保護施設に入るが、そこで暴力やいじめを受けた。

 そういう中で、同氏は日記を書き始めた。良いことも嫌なことも、また自分の中にある感情も書かなければ自分を確認することができなかったという。拾ってきた辞書で漢字を覚え、日記を元に綴った作品が労働大臣賞を受けた。こつこつ貯めた金で家を建て、その家を売って文芸賞を創設した。

 同氏は「日記は友達だった」「書かなければ生きられなかった」と述懐し、「神様はいいこと授けてくれたと思いますよ。書くことは誰の手も借りずに一人でやれる」「天に生かされたんだね。だからズルズルと生きてはいけない」とも述べている。

 私は今月、「毎月ニュース」40号分(1号~40号)をまとめて『心情論理で生きる――愛と価値の四〇章』(文芸社刊)を上梓した。できた本を見て、「書くことは自分の正体を明らかにすること」だと感じた。自分の脳の中にあるものに、万人が見ることができる形を与えることで、今後自分を成長させる方向性が少し見えたような気がした。