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This is the archive for February 2007

2007/02/15

 何か問題が生じた時に、そのことに関する法律はどんな形で定められているのか、という問題が生じます。それを法源(法が湧き出る泉)と言います。およそ法律には、文字で書かれたもの(成文法)と条文化されていないもの(不文法)とがあります。日本は、全ての法律について成文法主義をとっていますが、ことに私法には、民法、商法という二大法典があって、重要な法源となっています。

 民法なら民法について成文法が存在する場合にも、民法の対象となる事項に関する法律の法源を、その成文法だけに限ることは不可能です。いかに網羅的な成文法を制定しても、社会には限りなく新たに事件が生じ、自ずから独特な慣習が生まれ、やがて法律的な効力を取得して、成文法の間隙を埋めるだけでなく、成文法の規定を変更することも少なくありません。したがって、私法の法源としては、成文法の他に不文法として慣習法・判例法などの存在を認めねばなりません。

成文の私法と慣習私法

 民法の特別法としては、借地借家法、自動車損害賠償保障法、消費者契約法、製造物責任法、不動産登記法等があり、商法の特別法としては、信託業法、証券取引法、会社法等があります。商法の特別法は、商法に優先するから勿論民法にも優先します。これに対し、民法の特別法は民法に優先しますが、商法には優先しません。

 日本では、慣習法については、一般的に法令に規定のない事項についての補充的効力は認めますが、いやしくも法令に規定のある事項については、慣習法を優先させるという改廃的効力は認めていません。

 成文法の国では、成文を正面から否定する態度は避けなければなりません。しかし一方で、従来の慣習になかったことが法律に定められた場合、とりわけ身分関係の事柄については、社会の実際は、容易に法律のこの要請に従わないことがあります。そこで、成文の規定に解釈を加えて慣習法と調和する余地を作る操作をすることになります。

判例私法と条理

 裁判所が具体的な事件について裁判をすると、これによって抽象的な私法の規定は具体的内容を明らかにします。ある事柄について、そういうことが繰り返されるうちに、そのことについて慣習法の存在と内容が明確になり、裁判によって明らかにされた規範が法源としての効力を持つことになります。これが、判例私法です。地方裁判所や高等裁判所の判決は、最高裁判所の判決に倣う傾向を持っているので、判例法は主として、最高裁判所の判決によって形成されると考えられます。裁判所自体は、あくまでも具体的な判断をするにとどまり、抽象的な法則を定立する意識を持ちませんが、その具体的判断が集積して、そこからある程度の抽象的な法則が客観的に構成されていく、という限りにおいてのみ、判例法は抽象的な法規となり得るのです。

 条理とは物事の筋道であって、我々の理性に基づいて考えられるところのものです。裁判所は、法律がないと言って裁判をしない訳にはいきません。そこで、裁判所は自ずから条理に従って判断する他はないことになります。

(我妻榮『民法案内1私法の道しるべ』勁草書房を参考にしました)
 生命の誕生の前には夫婦の愛がある。連綿と続いてきた人間の歴史の中で、いつも生命の前には愛があった。それでは、(人間の)最初の生命の前にも愛はあったのか。

 この問いに対して、日本の学校教育では明確な答えを生徒に与えていない。無方向な変異と自然選択を唱えるダーウィンの唯物的な進化論を真理として教えているにすぎない。最近、人間を超えた何か偉大な存在(サムシング・グレイト)を想定しないと、人間や宇宙の存在を説明できないという主張が科学者の間から出てきて、共鳴する人が増えているが、これは進化論に対する逆説と見ることができる。もしも、この逆説が正しいとすれば、日本は人類の出現に関して国家を上げて虚偽を学ばせていることにならないか。同じく唯物論的な共産主義理論を国家運営の基本と定め、70年余りの実験の結果崩壊したソ連と同じように、人間の起源に関し、生命の前の愛に言及しない唯物的な理屈を教わるだけでは、日本人の精神は崩壊してしまわないだろうか。

 ある組織神学では、神(サムシング・グレイトと同義と考えて構わない)による人類始祖の創造と、生命の前の愛の関係を次のように説明している。「対象を愛することにより喜びを得ようとする情的な衝動によって、神は人類を創造せざるを得なかった。神が人類を見て喜びを得るためには、その人類も喜んでいなければ、真の喜びにはならない。人類を喜ばせ愛するために神は、地球上に山川草木や多くの種類の動植物を作り、宇宙に無数の星を作った」と。

 最近、サムシング・グレイトの存在に言及する人が多くなったのは、この組織神学の理論ほど明確ではないにしろ、生命の前の愛を本性的に察知した日本人の、進化論に対する反抗のような気がしてならない。

 一方、進化論のような唯物論的な考え方を認める人の多くは魂を認めないので、人は死ねばそれで全てが終わると考えている。しかし、生命の前の愛の存在を認める立場では、生存中に築いた家族や知人友人間の愛の関係がある時点を境に全て消滅してしまうことに納得できない。「人は死んでも(死後の世界で)生きている。そしてそれは永遠に続く」という説明の方に、心がひかれるのだ。

 私は、自殺者が高水準で推移していることや、経済格差の拡大等に伴う今日の日本の閉塞状況は、生命の前に愛を認めず、生命の後に永遠を認めない考え方を日本人が持ってしまったことが、大きく関係しているような気がする。

 国政選挙において、米国などでは、家庭の価値とか、妊娠中絶の是非等、精神的なことが争点となりやすいのに対して、日本では、年金とか雇用等、人間の生存中の物質的なことばかりが争点になる。人生とは、肉体の寿命がある時だけというとても窮屈な考え方が基にあるから、そうなるのではなかろうか。生命の前の愛と生命の後の永遠を見つめることで、人はもっと自由に生きることができると思う。