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This is the archive for January 2007

2007/01/15

公法と私法

 法律は公法と私法に大別されます。私たちの社会生活には、国家を構成し維持し、または直接にその保護を受ける関係(国民としての生活関係)と、直接に国家とは関係のない関係(人類としての生活関係)とがあります。国家の組織、主権の所在、国会の構成、刑罰権の運用、納税の義務、訴訟の取扱いなどは前者に属し、親子夫婦の関係、衣食住に対する財産とその取引の関係などは後者に属します。前者を規律する法律が公法であり、後者を規律する法律が私法です。
 
 国民としての生活関係、すなわち公法関係は極めて多岐に分かれますが、私法関係は身分と財産の関係と言っても構いません。この私法のほとんどを占める法律は、民法と商法です。商法は、商取引(営利性が強調される)関係に関わる特殊の法律であり、普通の取引関係を規律する民法から区別するようになりました。その結果、財産関係は商法の適用を受けない場合には、民法の適用を受ける(商法は民法の特別法)こととなりました。労働法、経済法、消費者法、及び知的財産法も私法であり、民法の特別法です。

公法の基本原理と私法の基本原理

 公法の基本的な原理は命令・強制です。立憲政治では、命令・強制をする主権そのものも、国民の総意に基づいて構成・運用されるものとし、立法・司法・行政の全ての分野において、できるだけ国民の意思が参与するものとなってきたものの、いったん決められたことについては、規律される国民の意思を顧みないで命令し、強制します。

 私法の基本的な原理は、自由・平等です。個人に自由を与え、平等な立場に置くことで、各個人の創意が刺激され、精神的・物質的な向上に努め、社会は生気にあふれたものとなり、文化の発達を望むことができるからです。

 しかし、各個人に無制限な自由を許すと、力の強い者の自由ばかり大きくなって、他の者の自由が脅かされ、従ってまた平等も保ち得なくなります。全ての人に自由を保障し平等を保つために、個々人の自由を制限することは最小限度必要です。

 今日の富の不平等をそのままにしておいて形式的な自由を認めたのでは、貧困者は日本国憲法の唱える「健康で文化的な最低限度の生活」(25条1項)を営むことはできません。日本国憲法のこの現定は、財産関係における自由・平等の原理の修正を暗示するものということができるでしょう。

 事実、終戦後行われた、労働関係の諸立法、農地改革、財閥解体というような政策は、いずれも、特殊な財産関係について、当事者の自由にまかせずに、命令・強制の原理を入れたものと見ることができます。
(我妻榮『民法案内1私法の道しるべ』勁草書房を参考にしました)

 30~40年前に、日本で文明史上の大事件が起きた。人類史始まって以来それまでは、人類は常に物の不足に悩まされる物不足社会を生きてきた。しかし、30~40年前に日本社会は物余り経済に突入したのである。

 販路構造における力関係を見てもそれは歴然としている。物不足社会では、メーカー、卸し、小売り、消費者という連鎖の中で、メーカーに近いところに位置している方が有利だ。消費者よりも小売り、小売りよりも卸し、卸しよりもメーカーにいた方が交渉を有利に進められ、小売りが頼んでも「そうは問屋(卸し)は卸さない」と言われた。

 それが物余り経済になると、力関係は逆転した。消費者は販路構造における最強の王様となり、物が豊かな生活を享受できるようになった。とともに、物が不足していれば感じやすい感謝の念も持ちにくくなってしまった。文明史上の大事件というのは、物の需要供給のバランスの問題だけにとどまらない。そのことによって、本来ならば物を主管(愛し管理すること)する立場にあるはずの心が、逆に物に主管されてしまう懸念が強まってきたのである。

 日本の進路についての研究会で、知り合いの経済学者のK先生が、「池田内閣の所得倍増計画は失敗だった」と発言されるのを聞いて驚いた。日本人の所得を倍増するという計画は、期間前に達成されたと聞いていたからだ。K先生の主張は、「物の豊かさの倍増を目指すのであれば、心の豊かさの倍増も合わせて目指さなければならないのに、そのことについては明確ではなかった」との趣旨だった。

 お金は車社会におけるガソリンのようなものだ。仕事や勉強や遊びのために出かけようと思っても、それがないと身動きが取れない。その意味ではとても大切なものだ。しかし、使い方を間違えると身を滅ぼしたり火事になったりと危険だ。使い方が肝心だ。

 タバコの吸いすぎは健康に良くない。それでタバコのケースには「健康のため吸い過ぎに注意しましょう」と書いてある。しかし、タバコ一本一本に書いておいた方が効果が上がるのではなかろうか。お金も同様だ。紙幣一枚一枚に「幸福のため持ち過ぎに注意しましょう」と、書かれていれば、適正な使い方をする役に立つかもしれない。

 キリスト教の宣教師パウロは、「私は、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、…肢体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見る。私はなんというみじめな人間なのだろう」と、欲望を治めることの困難さを嘆いた。このパウロの告白は、古今東西すべての人間の悩みであるが、物余り社会ではさらに困難さは強まるのではないか。

 文明史上体験したことのない環境だけに、人類が豊かな物に囲まれて自滅しないという保証はない。そのような環境の中でいかに身を処すかは、すべての人が真剣に考えるべきテーマではなかろうか。