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This is the archive for December 2006

2006/12/15

 世の中は不思議で満ちている。ある人のことを考えていると、その人から電話がかかってきて驚くことがある。目に見えない世界で、思いはつながっているのかもしれない。

 大人が外国語を学ぶとき、一つ一つの言葉の発音や意味を覚え文法を学び、それでもなかなか話せない。赤ん坊はそういう教育を受けていないのに、周囲の人の話す言葉を聞いているだけで、一歳にもなるとだいたい話の内容を理解しているという。人間の言語能力獲得の仕組みは不思議に満ちている。

 不思議と言えば、自分が存在していること自体が不思議だ。もの心がつくようになった後、自分があるところ(家、学校、公園等)にいれば、その前にそこへ行こうと思ったはずだ。それが原因となって、その結果としてそこにいるようになる。

 しかし、人間はもの心がついたとき、地球上に存在しているのに地球で存在し始めようと思った結果として存在しているわけではない。気がついたら存在していたのだが、そのことの原因は、自分が認識していないだけで何かあるはずだ。夫婦間の相互作用の結果と言ってしまうのは簡単だが、それでは一番初めにさかのぼればどうなるのか。最初の原因は何なのかについて、誰もが納得できる答はまだない。それなのに平然と存在しているというのも不思議なことだ。

 不思議なことに出会ったとき、人はそれを解明するのにどのような考え方をしてきただろうか。1つは、人間を超えた偉大な創造者を認め、その偉大性を理解し賛美するために、宗教的または科学的なアプローチをしてきた人たちがいた。もう1つは、人間の理性を信頼し、創造者を考えずとも科学が万能であるとして、不思議な現象の解明に取り組んだ人たちだ。

 私は、前者の方が優れたアプローチだと思う。価値から離れた科学が決して万能ではないことが指摘されている今日、科学では説明できない不思議な現象に対して、創造者像を描き、それをもとに合理的な説明を求める研究が日本でも始められても良い頃だと思う。

 アイザック・ニュートンは、聖書研究にも科学研究と同様の情熱をつぎ込んだ研究者だった。研究室を訪れた無神論者の友人がニュートンの研究室にある宇宙の立体モデルを見て、「とても精巧に作られているね。誰が作ったのか」と聞いたときに、ニュートンは「誰も作ってはいない。物質の粒子が集まってひとりでにできたんだよ」と言うと、「そんなはずはない。誰か制作者がいるはずだ」と言う。そこでニュートンは、「あなたはこんなちっぽけなモデルにさえ創造者を認めるのに、どうしてそれとは比べものにならないほど大規模で精巧な宇宙に創造者を認めないのか」と言ったという。

 日本でも、ニュートンのような観点からの研究者が輩出すれば、不思議な現象の解明が進むだけではなく、学問や考え方の枠組みの変更をもたらすような、偉大な発見がなされるかもしれない。