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This is the archive for December 2006

2006/12/15

ワークショップの効果

 ワークショップとは「多様な人達が主体的に参加し、チームの相互作用を通じて新しい創造と学習を生み出す方法」のことです。ワークショップには、問題解決やチームの合意といった「成果の創造」と、共同作業を通しての「参加者の学習」という二つの効果が期待できます。

 行動の結果を評価して意思決定や行動を修正する(シングルループ学習)だけでは、事実や現象を理解する枠組みを修正するところにまでは至らず、何度も同じ過ちを繰り返すことにもなりかねません。ところが、他者との相互作用を通じて自己開示とフィードバックが促進されるワークショップでは、行動を変えるだけではなく、それを生み出すもととなった価値観や思考の枠組み、つまりコンテクストそのものを変革する学習(ダブルループ学習)が起きやすい。ビジネスにおいて「なるほど、そのような考え方なのであのようなやり方をするんだ。分かった」という感覚を持つことがありますが、その時に新しいコンテクストが形成されているのです。

問題解決型ワークショップ

 ワークショップには幾つかの型がありますが、ここでは問題解決型ワークショップを取り上げます。問題解決型ワークショップでは、会議が持ちがちな問題点(自由に話し合えない、目的も結論もはっきりしない、一部の人からしか意見が出ない、時間の無駄だ等)を打ち破ることが期待されています。会議の中の議論の節目でワークショップを開いたり、課題毎に分かれて分科会形式でワークショップをするなど、会議と使い分けるのが効果的です。

 ワークショップでは、十人くらいがロの字か円形になって接近して座ります。「今後の行動を決める上でのもととなる方向性を合意する」くらいのテーマ設定をし、参加者が対等な立場で議論し、職務責任を追及されないことを宣言し、肩書きでなく名前で呼び合うようにします。アイディアを生み出す過程では「批判厳禁」「質より量を大切にする」などのルールを守ります。

ファシリテーション・グラフィック

 議論の内容を言葉や図形を使って分かりやすく記述していく「議論を描く」技術がファシリテーション・グラフィックです。これを用いれば、①議論の構造が分かりやすくなり、途中から参加した人でもすぐに内容が分かる②かみ合わない議論や堂々巡りを避けることができる③メッセージが伝わったことが確認でき、安心感を与えることができる④議論の抜けや漏れを防ぐことができる⑤チーム共通の記録として残すことができる、等の利点があります。

 ファシリテーション・グラフィックの描き方としては①メンバーの発言を要約する②図形や装飾を加える③矢印で発言を関係づける、の順番で行います。
(「問題解決ファシリテーター」(東洋経済新報社)を参考にしました。)
 世の中は不思議で満ちている。ある人のことを考えていると、その人から電話がかかってきて驚くことがある。目に見えない世界で、思いはつながっているのかもしれない。

 大人が外国語を学ぶとき、一つ一つの言葉の発音や意味を覚え文法を学び、それでもなかなか話せない。赤ん坊はそういう教育を受けていないのに、周囲の人の話す言葉を聞いているだけで、一歳にもなるとだいたい話の内容を理解しているという。人間の言語能力獲得の仕組みは不思議に満ちている。

 不思議と言えば、自分が存在していること自体が不思議だ。もの心がつくようになった後、自分があるところ(家、学校、公園等)にいれば、その前にそこへ行こうと思ったはずだ。それが原因となって、その結果としてそこにいるようになる。

 しかし、人間はもの心がついたとき、地球上に存在しているのに地球で存在し始めようと思った結果として存在しているわけではない。気がついたら存在していたのだが、そのことの原因は、自分が認識していないだけで何かあるはずだ。夫婦間の相互作用の結果と言ってしまうのは簡単だが、それでは一番初めにさかのぼればどうなるのか。最初の原因は何なのかについて、誰もが納得できる答はまだない。それなのに平然と存在しているというのも不思議なことだ。

 不思議なことに出会ったとき、人はそれを解明するのにどのような考え方をしてきただろうか。1つは、人間を超えた偉大な創造者を認め、その偉大性を理解し賛美するために、宗教的または科学的なアプローチをしてきた人たちがいた。もう1つは、人間の理性を信頼し、創造者を考えずとも科学が万能であるとして、不思議な現象の解明に取り組んだ人たちだ。

 私は、前者の方が優れたアプローチだと思う。価値から離れた科学が決して万能ではないことが指摘されている今日、科学では説明できない不思議な現象に対して、創造者像を描き、それをもとに合理的な説明を求める研究が日本でも始められても良い頃だと思う。

 アイザック・ニュートンは、聖書研究にも科学研究と同様の情熱をつぎ込んだ研究者だった。研究室を訪れた無神論者の友人がニュートンの研究室にある宇宙の立体モデルを見て、「とても精巧に作られているね。誰が作ったのか」と聞いたときに、ニュートンは「誰も作ってはいない。物質の粒子が集まってひとりでにできたんだよ」と言うと、「そんなはずはない。誰か制作者がいるはずだ」と言う。そこでニュートンは、「あなたはこんなちっぽけなモデルにさえ創造者を認めるのに、どうしてそれとは比べものにならないほど大規模で精巧な宇宙に創造者を認めないのか」と言ったという。

 日本でも、ニュートンのような観点からの研究者が輩出すれば、不思議な現象の解明が進むだけではなく、学問や考え方の枠組みの変更をもたらすような、偉大な発見がなされるかもしれない。