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This is the archive for November 2006

2006/11/15

 チームで意思決定や合意形成をしようとすると、必ずと言ってよいほどコンフリクト(対立、葛藤)が発生します。互いの利益がぶつかる状況では、コンフリクトがチーム活動の命取りにもなりかねません。

 コンフリクトを生み出すものは、お互いが持っている異なる価値、目標、視点、利益、思想、世界観に固執するからです。それで、コンフリクト解決の第一のステップは、相互理解を深めることです。そのためには、コンフリクトの背景にあるコンテクスト(文脈)を共有することが大切です。その上で、自分も相手も最大の利益が得られるようにするには、本質を見極める力、柔軟な思考、協調的な関係が大切です。
 
コンテクスト共有のための方法(三つのP)

①より高い目的から見る(Purpose)

 現在の目的のさらに上位にある目的(統合的な目的)を見い出すことができれば、それが両者が一致できる共通目的となり、現在の目的はその手段となります。手段であれば、他にいくつも考えられ、それにこだわる理由がなくなります。共通目的を見つけ出すためには、「なぜ」を繰り返すのが、効果的です。

②より広い視点から見る(Perspective)

 時間的(短期か長期か)、空間的(ローカルかグローバルか)、またはシステム的なスケールの違いによって発生するコンフリクトを解消するには、上位のスケール(短期でなく長期、ローカルでなくグローバル)で問題を捉えることが大切です。しかし、この場合、短期と長期、ローカルとグローバルの調和を図る方法を考えないといけません。

③第三者の立場から見る(Position)
 立場が変われば事実を捉えるコンテクストも変わります。兄か弟かではなく家族の立場から、個人か組織かではなく顧客の立場から、男性か女性かではなく人間や社会の立場から、というような両者を統合する位置にいる第三者的な立場から問題を俯瞰することが大切です。

コンフリクト解消の三つのアプローチ

①創造によるコンフリクト

 「図書館でAさんが風を入れようと窓を開けたところ、近くに座っていたBさんの資料が風で飛ばされ、Bさんは窓を閉めた。それを見ていたCさんが、二人が座っていた窓と反対側の窓を開けて風を入れた」という話がある。互いの見かけの目的にとらわれずに、本当の要求を見極めようとするところから、Cさんのような優れたコンフリクトの解消法が生まれます。

②交換によるコンフリクトの解消

 真の目的にまでさかのぼって議論してみると、案外お互いが求めているものが違うかもしれません。そうであれば、お互いに欲しいものを取り合えば、それぞれ百%満足できます。

③分配によるコンフリクトの解消

 話し合いを通じて、双方が少しずつ歩み寄り合意点を見出そうとします。折り合うポイントを決める時には、個人の意見とは無関係な客観的な基準を使うと、納得性が高く感情的なしこりも残りにくくなります。
 日本のバレーボールチームなどと外国のチームとの、日本での試合のテレビ放送を見ると、日本人の観客が一団となって、大きなかけ声の元に、いっせいに同一行動をしている。しかも、日本チームが得点すると、大きな拍手を送るが、相手チームの選手の妙技があっても、拍手はほとんど聞かれない。

 日本人として日本チームを応援するのは、自然な感情とは思う。歓声や拍手が自然発生的に起こってくるのであれば、何も言うことはない。しかし、統一的行動で会場を支配するような雰囲気で応援するというのは、試合会場やテレビで観戦をしている人の中には、当然外国チームを応援している人もいることを考えると、やりすぎではないかと思う。

 私は、国を愛することをやめよと言っているのではない。オリンピックなどの試合で入賞した人が表彰台に立ち、掲揚される国旗の元、涙を流して国歌を歌う光景は美しいと思う。そこに流れるのは、栄光の立場に立たせてくれた人々や国に対する感謝の念や誇りの思いであり、それが個人の自発的意思として穏やかに表現されているから美しいと感ずるのである。そのような含蓄のある応援のしかたはないのだろうか。

 ある中国人留学生は、日本語弁論大会の発表で、「中国でもいじめはあるが、大勢がいっしょになってひとりの人をいじめることはない。日本でそのようなことが起こるのは、日本人の集団主義の現れだと思う」と言っていたが同感だ。

 集団主義とは、周囲の行動に合わせ、全体の中に埋没することで自分が批判を受けることを避け、もって安心感を得ようという考え方の習慣とも言えよう。

 このような行動が取られる原因の一つは、自分に自信がないことだと思う。なぜ自信がないのか。私は従来、日本の多くの家庭や学校で「他人の迷惑にならないように生きて行きなさい」とは言われても、「他人に喜ばれるようなことをして生きて行きなさい」とはあまり言われなかったことが関係しているような気がする。

 もとより、他人に迷惑をかけてはならないのは自明のことだ。しかし、初めての人生を、程度の差はあれ人に迷惑をかけないで生きていくことなど、もともと不可能なことではないか。しかも、他人に迷惑をかけてはいけないと過度に意識していると、気持ちが委縮して、自分が良かれと思ったことでも、行動に踏み切れなくなってしまうのではなかろうか。

 むしろ、「今日はどんな行動で誰を喜ばせ感謝されたの?」と親や先生が子供や生徒に尋ねることが習慣になっていれば、人に善意を示すさまざまな智慧やノウハウが大人から子供に伝授され、それを社会で実践して感謝されれば、自信がついてくるのではなかろうか。結果として、他人に迷惑をかけないことにもなる。

 さらに、どのように喜ばせるかを考える中で創造性が養われ、人に配慮することも覚え、集団主義の弊害が取り除かれていく。その先に、洗練された応援の方法が生み出されることを期待したい。