議論の過程で市の事務局から提出された討議用資料を見て、教育を視野に入れた文言がほとんどないことと、価値観について「多様な価値観の尊重」という文言は見えても、「普遍的(人格的)価値観の尊重」という文言が見あたらないことを感じた。
イギリスのブレア首相が選挙演説で言った「イギリスには3つの課題がある。1に教育2に教育3に教育である。」のことばを持ち出すまでもなく、私は国政であろうと市政であろうと、教育は常に最大の政策課題だと考えている。
また、偏狭な優越感から解放された戦後日本において「多様な価値観の尊重」を唱えるのであれば理解できるが、犯罪が凶悪化・低年齢化して、国民の倫理観の喪失が指摘されている今日では、良心、共感、自制等の「普遍的価値観」の重要性を唱えた方が妥当ではなかろうか。
私はそのように感じたので、全体会議でも所属する安心部会でも、毎回そのことについて発言した。「アメリカのある市では市長を中心に人格教育審議会を作り、各月の徳目を決め、学校もマスコミも商店街もそれを標語にして強調する取り組みを継続している。富山市でもやってはどうか」「もしも殺人事件が毎月のように富山市で起きれば市民感情はどうなるか。危機感を持った取り組みが必要ではないか」等である。それに対し他の委員からは同調的な声が多く、私は基本構想に文言として反映するものと思っていた。
しかし、事務局から出された構想案には「人格的価値」の文言も「普遍的価値」の文言もなく失望した。全体会議でそのことを指摘したところ、基本計画の段階で具体的内容を検討したいとの回答が得られた。
確かに事務局のとりまとめの作業はたいへんだ。特定の意見だけを重視することなく中庸を保ちながらも、1つの観を持っていないと分裂した内容になってしまう。しかし、普遍的価値の文言を入れることは必要だとの思いは変わらない。
文部省は戦後、青少年の性倫理を高めるための「純潔教育」を進めたが、「性教育」という用語が定着し始めると、「純潔教育」はやめてしまった。今ではこのことばは死語になってしまった。しかし、もしも文部省が純潔教育を継続していたら、今日のような性の退廃は見られなかったかもしれない。
良心、共感、自制、純潔等の徳目は、一党一派を利する特定の価値観ではない。むしろ、それを求め目指し続けていかないと、健全な社会を維持できなくなってしまう必須のものなのではなかろうか。普遍的価値観にこだわる不変の闘いは終わらない。
Posted by oota at 03:46 PM. Filed under: 随想・評論(平成18年)