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This is the archive for June 2006

2006/06/15

民間の資金や技術を活用して新規の公共施設を建設し維持していくこと。市場化テスト同様、英国生まれの官業開放ツールで、日本には1999年7月「民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関わる法律」(PFI法)の制定に伴い導入されました。
 制度の流れは指定管理者制度と似ており、
①国、自治体がPFIによる公共施設建設計画を策定し、参加する民間企業を募集する
②入札後、落札企業と契約し、事業を開始する
が基本となります。建設から維持管理まで、プロジェクトの規模が大きいため、民間側は複数の会社が企業連合(コンソーシアム)を組んで入札に参加するのが普通です。

火葬場、病院、刑務所等

 PFIの活用先としては、小中学校、大学、ゴミ処理場、図書館、庁舎、老人福祉施設、公営住宅、コンテナターミナル、美術館、水道、駐車場、公務員宿舎と広範囲にわたります。高齢化社会の進展に伴い、火葬場や病院等はPFIによる建設が増加する可能性が高い。
 PFIを用いた刑務所計画もあります。平成19年4月収用開始予定の「美祢社会復帰促進センター」(山口県美祢市)です。この民営刑務所の特徴として、「矯正教育、職業訓練の充実」「ITを活用した効率的・効果的な警備」が掲げられています。これらを実現するためには、建設会社やビルメンテナンス業者だけでは無理です。職業訓練一つとっても、介護技能、点字翻訳作業、農園芸技術、パソコン技術が含まれており、それぞれ専門業者に教育業務を委託する必要があります。
 PFIは事業規模が大きいことから、大手ゼネコン、大企業の独壇場のようにとらえられがちですが、施設の種類によっては、建設業以外の業種や中小企業にも活用のチャンスがあると言えそうです。

社会的影響が大きい

 また、指定管理者制度は現存の施設を活用する手だてであるのに対して、PFIは建物の建設段階から官と民が協力して事業を進める仕組みです。相乗効果もありますが、官と民の間で責任所在が曖昧になる可能性もあります。
 県内では、高岡市が2007年度にも予定されている「蓮花寺市営住宅」の建て替え工事に初めてこの方式を導入する見込みです。
 PFIは、建物の建設が絡むうえ事業規模が大きいので、事故や施設閉鎖等の問題が生じた際の社会的影響は、他の官業開放ツールよりも大きいと言えそうです。
(「パブリックビジネス・リポート」(日経BP社)を参考にしました)
 20年近く前に、富山市内の道路脇に「少年よ、罪を犯すな、親の恥」と書かれた富山県警の看板を見て苦笑した。「犯罪予防は、その罪自体が悪いことだと納得させるべきであって、親の恥になるからという理由でやめさせようとするのは、筋違いではないか」と思ったからだ。
 しかし、今の私の考え方は変わった。看板に書かれた内容に完全に賛同するようになった。この間、二児の父となったということもあるが、人を動かすには論理ではなく情に訴えるのが効果的であると思うようになったからである。
 学問で用いられる論理は、基本的には信頼できると思う。しかし、社会生活において人間が用いる論理は、基本的には疑ってかかるべきだ。なぜなら、自己正当化のための手段として用いられることが多いからだ。
 ベストセラー「国家の品格」の著者、藤原正彦氏の講演会に参加したところ、「私は人を殺してもよい理由を50くらいは並べることができる。そしてその後に人を殺してはいけない理由を50並べることができる。論理とはその程度のものです」ということをおっしゃっておられたが、同感だ。
 「なぜ人を殺してはいけないか」と問う青少年に対して、私は以前その理由を論理的に説明してやるべきだと考えていたが、「それではあなたは殺されてもいいのか」と逆に問いかけることが適切な対処法だと思うようになった。
 愛国心を学校教育で教えるべきかという議論がなされている。「教えるべきではない」と主張している人の中には、「憲法19条の思想及び良心の自由に違反することになる」と主張する憲法学者もいる。憲法という範囲の論理としてはそのとおりかもしれないが、憲法は時代とともに変わるものではないのかと問い返したくなる。
 反面、厳密な論理の上では完全でないとしても、「国に愛され、国に生命・財産を守ってもらっているのだから、国を愛し国に恩返しをするのは当たり前だ。あなたとあなたを生んだ親と先祖が、国によって愛され生かされてきた歴史の連続性に敬意を払わないで、あなたが存在する根拠を肯定的に説明することができるのか」というような、情緒を加えた論理の方が説得力を感じる。
 私は純粋な論理を否定するものではない。ただ、人間の精神生活を豊かにするために論理を用いようとするのであれば、愛と生命と存在等の実存的関係を踏まえた、情緒的、心情的な論理(私は「心情論理」と呼んでいる)であってこそ、人々の心にストンと落ちて納得されるのではないかと思う。
 多くの宗教で説かれる黄金律(「自分の望むことを人にせよ」「自分の望まないことを人にするな」)や、親孝行、郷土愛、祖国愛、人類愛等、普遍的な人としての生き方は、このような心情論理として語ってこそ、青少年の生きる力となるのではなかろうか。