Skip to main content.
*

Archives

This is the archive for May 2006

2006/05/15

「罪をつぐなう」と言うと、否定的なイメージが持たれやすいが、この行為に含まれる積極的な意味に合点がいけば、心が解放された平安な人生を送りやすくなると思う。

 NHK総合テレビの六回シリーズのドラマ「マチベン(町弁)」(脚本 井上由美子)の最後の二回は、この問題を取り上げた心に残るドラマだった。

 竜雷太演じる深川保は、娘の八重子の不倫相手を八重子の娘、友香がはずみで殺したことを知り、孫を殺人者としないために、自分が殺したと主張した。江角マキコ演じる主人公の天地涼子は、服役中の保を救い出すために弁護士に転身した。天地は別件で殺人未遂犯にされ、被告の立場で法廷で保に質問し、事件の真相を明らかにするよう迫った。
 
 法廷で傍聴していた友香は、たえられず真実を話したいと天地被告の弁護士に申し出た。ところが、天地は、保自身が真相を話さなければ本当の解決にならないとして、友香に発言の機会を与えない。次第に感情が高ぶる保を前にして、天地被告は「愛する人に罪を償う機会を与えず、これからずっと罪を隠しながら生きていかせるんですか。法廷は人を裁く場所であるとともに、赦すところでもあるのです」と迫っていく。天地の迫力に屈した保は真相を語り始めた、という感動的なドラマだった。

 私はこのドラマから二つのことを学んだ。一つは、罪を償うということは、償う人の尊厳性を保つということだ。もしも友香が罪を償う機会を与えられないとするならば、人間としての尊厳性を感じることなく生きていくことを余儀なくされることになるのではないか。

 もう一つは、真相を明らかにし罪を償う方法だ。保が真相を隠したのだから、真相を明らかにするのも保でなければならないと天地は考えた。さらに言えば、旧約聖書の「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷……をもって償わなければならない」(出エジプト記21章)という文言は、復讐の論理と考えられがちだが、償いの論理とも考えられる。つまり、「人の命を失わせたら自分の命を差し出すべきだ」という同等の価値をもって償いをするという原則を示したものと見ることができる。償いにも論理と責任があるということだろう。

 死後の世界の存在を肯定するある組織神学は、肉身生活(生まれてから死ぬまでの間)の目的の一つは、肉身生活で犯した罪を償うことだとしている。罪を償うことなく死ねば死後の世界で償わなければならず、肉身を持たずにそれをするのはとても困難だというのだ。

 平成21年5月までの間に始まる裁判員制度の裁判員になることに、多くの国民はあまり気が進まないようだが、「裁く」ということは「赦す」ことであり、被告の「尊厳性を守る」ことでもあることを理解すれば、もっと積極的に関わろうとする人が増えるのではなかろうか。