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This is the archive for May 2006

2006/05/15

「指定管理者制度」とは、地方自治体が保有する公共施設の管理運営を、民間企業に任せることです。2003年9月の地方自治法の改正に伴い誕生した制度です。

 総務省は、自治体に対し、06年9月までに地域内の施設について、指定管理者制度を活用するか、直営を続けるか、態度を表明するよう通達を出しています。これを受けて、昨年10月から11月にかけて、さまざまな公営施設について管理者の募集が行われました。
ただし、自治体が全国に持つ約40万の公共施設のすべてが開放され、指定管理者が公募されるわけではありません。指定管理者を公募せず、官の外郭団体など既存の管理者が運営を続行するケースが多数見られます。

 指定管理者の契約期間は3~5年であり、次の指定管理者選びがピークを迎えるのは、2010年頃となります。

成功の鍵

 指定管理者制度ビジネスがうまくいくかどうかの鍵は、「人件費をいかに圧縮できるか」「委託料の支払いシステムは何か」の2つであると言われています。

 前者の人件費については、施設スタッフの数が増えても、公務員や嘱託等ではなく正社員やパートとして雇用するので、人件費総額を大きく圧縮することは可能です。

 後者の委託料支払いシステムについては、指定管理者の収入が①来場者数の増減によって変わらない委託費のみという「委託費固定型」②来場者の入場料のみという、ハイリスク・ハイリターンの「料金収入型」③来場者の増減で変わらない委託費と、来場者の入場料から成るという「一部料金収入型」とがあります。

 公共施設の多くは、採算ギリギリか赤字経営のものが多いのが現状です。そのような施設の管理を受託して利益を上げるためには、「もともと施設の魅力はあるのに、従来の運営方法に問題があるために利益が出ない」という潜在能力のある施設を探すことが大切です。

 たとえば、東京都葛飾区の「寅さん記念館」は、来場者はまだまだ伸ばせると判断した企業グループが、委託料0円で入札に参加し、指定管理者の資格を得ました。

重要なノウハウの蓄積

 公募されていても、民間企業が官の外郭団体等に競争入札等であっさり敗退するケースも目立つといいます。「企画力では民が官より上」とよく言われますが、必ずしもそうとは限りません。公共施設運営に関するノウハウを蓄積し、それが反映された企画書を作成し、県の審査を通らないと競争入札に勝てません。

 公民館、保育所、観光施設から、美術館や博物館などの学術系施設まで、さまざまな施設がターゲットになっており、今のところ、この制度の対象から外される「聖域」は見られないといいます。民間のノウハウが生かされ、新しいサービスが開発され、効率的な運営がなされることが期待されます。
「罪をつぐなう」と言うと、否定的なイメージが持たれやすいが、この行為に含まれる積極的な意味に合点がいけば、心が解放された平安な人生を送りやすくなると思う。

 NHK総合テレビの六回シリーズのドラマ「マチベン(町弁)」(脚本 井上由美子)の最後の二回は、この問題を取り上げた心に残るドラマだった。

 竜雷太演じる深川保は、娘の八重子の不倫相手を八重子の娘、友香がはずみで殺したことを知り、孫を殺人者としないために、自分が殺したと主張した。江角マキコ演じる主人公の天地涼子は、服役中の保を救い出すために弁護士に転身した。天地は別件で殺人未遂犯にされ、被告の立場で法廷で保に質問し、事件の真相を明らかにするよう迫った。
 
 法廷で傍聴していた友香は、たえられず真実を話したいと天地被告の弁護士に申し出た。ところが、天地は、保自身が真相を話さなければ本当の解決にならないとして、友香に発言の機会を与えない。次第に感情が高ぶる保を前にして、天地被告は「愛する人に罪を償う機会を与えず、これからずっと罪を隠しながら生きていかせるんですか。法廷は人を裁く場所であるとともに、赦すところでもあるのです」と迫っていく。天地の迫力に屈した保は真相を語り始めた、という感動的なドラマだった。

 私はこのドラマから二つのことを学んだ。一つは、罪を償うということは、償う人の尊厳性を保つということだ。もしも友香が罪を償う機会を与えられないとするならば、人間としての尊厳性を感じることなく生きていくことを余儀なくされることになるのではないか。

 もう一つは、真相を明らかにし罪を償う方法だ。保が真相を隠したのだから、真相を明らかにするのも保でなければならないと天地は考えた。さらに言えば、旧約聖書の「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷……をもって償わなければならない」(出エジプト記21章)という文言は、復讐の論理と考えられがちだが、償いの論理とも考えられる。つまり、「人の命を失わせたら自分の命を差し出すべきだ」という同等の価値をもって償いをするという原則を示したものと見ることができる。償いにも論理と責任があるということだろう。

 死後の世界の存在を肯定するある組織神学は、肉身生活(生まれてから死ぬまでの間)の目的の一つは、肉身生活で犯した罪を償うことだとしている。罪を償うことなく死ねば死後の世界で償わなければならず、肉身を持たずにそれをするのはとても困難だというのだ。

 平成21年5月までの間に始まる裁判員制度の裁判員になることに、多くの国民はあまり気が進まないようだが、「裁く」ということは「赦す」ことであり、被告の「尊厳性を守る」ことでもあることを理解すれば、もっと積極的に関わろうとする人が増えるのではなかろうか。