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This is the archive for September 2005

2005/09/15

 人間は死ぬか老いるかである。冷凍保存でもしない限り、第三の道はない。ということは、年を取るということは、その年まで死ななかったということなので、喜ばしいことのはずである。しかし(私を含めて)多くの人は、年を取ることを嫌がる。よく分からない死後の世界へ旅立つ日が日一日と近づくことになるし、体も思うように動かなくなる。中には、寝たきりになってしまって人に迷惑をかけるだけなら、早く死にたいと思う人もいるようだ。

 そういう人にとって朗報がある。祈りには他者を治す力があるというのだ。祈りの効果については、一千を超える研究論文が発表されているという。

 例えばサンフランシスコのある病院では、心臓病集中病棟の三九三名の患者を米国内の様々な場所にいるキリスト教信者によって祈られる人のグループと祈られない人のグループに分け、両グループの患者は同じハイテク治療を受けたところ、祈られた患者の方が、いくつかの測定の結果、統計学的に見て、明らかに有意に良くなっていることが分かったという(「祈る心は治る力」ラリー・ドッシー著 日本教文社)。

 祈る人は、キリスト教信者でなく、別の宗教の信者でもいいし、宗教を信じていない人でも効果に変わりはないという。また、「祈りそのものには力はない。祈りを行うと効果があるのは、祈りが効くだろうという期待感を人が持つためだ」と、プラシーボ(偽薬)効果を主張する人がいる。しかし、患者や患者に接する人に、誰が祈られ、誰が祈られていないか分からないように配慮された実験でも同じような効果があらわれているので、プラシーボ効果ではないことになる。さらに祈りの効果は、地球規模での遠距離同士で行おうと近くのベッドサイドで行おうと同じだという。

 同書「祈る心は治る力」では祈りのこつについても触れている。一方的にガツガツと厚かましくお願い事をするという姿勢より、常日頃のことをまず感謝し、それから全てをゆだねお任せするという精神的態度の方が、願い事は叶うようだという。人間同士のコミュニケーションにおける礼儀と同じものが、祈りでもある方がよいようだ。

 アメリカでは、祈りの研究に公的資金を使うことに、人々は好意的だという。祈りが病の治療に効果があるということは、代替医療の一つと見なせるということだ。日本でも医療の研究費として支出して、祈りの研究をしてはどうだろうか。

 映画「ジョニーは戦場へ行った」の主人公ジョニーは爆撃にあい、両手両足はおろか、目、鼻、口、耳までも吹っ飛ばされ病院に運ばれた。医者の見解は、彼は生きているだけの意識のない肉のかたまりであったが、ジョニーにははっきりした意識があった。祈りには他者を治す力があることを彼が知っていれば、たとえそのような体になったとしても、自分の祈りで人を治せるという自分の存在意識を感じることができるのではなかろうか。

コーチングとトレーニング

 コーチングは一般的に「目標達成やパフォーマンス向上のために、対象者を勇気づけ、対象者のやる気を引き出し、目標達成に導くための心理的支援」と定義されています。

パフォーマンスの向上が目的ですから、芸術やマネジメント、営業、部下育成という分野にも有効性が認められています。

 同じようにパフォーマンスの向上を目指して行うものにトレーニングがあります。

トレーニングではトレーナーが示してくれる模範回答や既に決まった型をトレーナーの指示命令に従い、マニュアル通りに実施するものです。

一方、コーチングでは、模範回答は存在せず、コーチとの質問を中心としたコミュニケーションによって気づきを得ながら、自分に適した方法を選択するものです。