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This is the archive for August 2004

2004/08/15

 50年近く生きていると、いろいろなタイプの人に出会う。現世的な名誉や地位に関心のある人もいれば、自分の趣味を中心に生活設計を立てている人もいる。その中で一番気にかかるのが、自分が生きている意味が分からないがゆえに心が安まらず、生きる力が半減してしまう、というタイプの人々だ。

 1903年に「万有の真相は唯一言にしてつくす、曰く『不可解』我この恨を懐て煩悶終に死を決す」の遺書を残して、日光の華厳の滝にその身を投じた藤村操のような感性を持った人は、今日にも少なからずいると思う。

 生きる意味や自分がよって来たところの論理的な説明はできずとも、生まれ育った家庭・社会・自然環境が情感豊かなものであれば、自然の中に美を、人の中に情を見つけて、それが生きる力になるだろう。

 幸か不幸か、そのような環境に恵まれることなく育ったときは、前述のタイプの人々は生きる意味の論理的説明を得ることに必死になる。それは第三者には分かりにくくても、当人にとっては、納得した生き方を続けるためにどうしても必要なことなのである。

 生きる意味を考えるとき、最も重要なテーマは、自分をこの世にあらしめたものは「創造」なのか「進化」なのか、というテーマではなかろうか。

 もしも自分が神によって一定の目的のもとに作られた存在であれば、その目的を何よりも先に知らなければ正しい生き方はできない。人間は様々な道具を作って使っているが、作った目的に合致した使い方をしないと、その道具を作った目的(道具にすれば存在目的)は果たされないのと同じ事だ。

 しかし、もし自分が進化の結果として存在しているとすれば、生きる意味はなかなか探し出せないような気がする。ダーウィンやド・フリースが説く自然選択説や突然変異説によって人間が万物の最高位に至ったのであるとすれば、人間は偶然の産物にすぎない。偶然の産物の存在意味や尊厳性は、なかなか見い出しにくい。
学内でいじめによる自殺などが起きたときに、校長先生が全校生徒の前で「生命は大切です」と話したというニュースを何度か見聞きした。そのこと自体はとても大切なことだとは思うが、「それではなぜ生命は大切なのですか」と生徒から問われたときに、創造論を教えず進化論を真理として教えている日本の学校で、子どもが納得する説明をしてやれるのだろうか。

 昨今、欧米や韓国などの科学的分野の博士号を持つ人や、研究所の科学者たちの中で、これまで科学的に無理が多いと言われながら長く信じられてきた「進化論」よりも、世界と全ての生物は創造されて出現したと考える「創造論」を正しいとした方が、科学の発展によって明らかにされた様々の科学的事実をよく説明できると唱える人が増えてきているという。

 そのような創造・進化論争が100年前に日本で起きていれば、藤村操は死を選ばなかったのではなかろうか?
権利としての著作権

著作権とは、「講演」「論文」「小説」「音楽」「振付」「地図」「映画・ビデオ」「写真」「コンピューター・プログラム」「編集物」「データベース」などといった「創作物」を創り出した人が自動的に持つ「他人に無断で利用されない」権利のことです。

自分の著作物が無断でコピー・販売されたり、インターネットで送信されるなどして権利を侵害された場合には、そのような「犯罪行為」に対して権利者が「告訴」(親告罪)することができます。「3年以下の懲役」または「300万円以下の罰金」という罰則規定が設けられています。

日本では、このような権利を守ろうという意識がアメリカ等に比べて、低いといえます。

アメリカで制作されたアニメーション「ライオン・キング」(利益は推定10億ドルとも言われています)が、手塚治の「ジャングル大帝」の模倣であると判明したとき、手塚プロ側が「手塚が知ったら喜ぶことでしょう」という趣旨のコメントを出したといいます。

このような穏便な対応は、アメリカではまずあり得ません。

知的財産に対する日米の意識の違いを浮き彫りにする出来事といえるでしょう。