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This is the archive for October 2003

2003/10/15

戦前の相続と戦後の相続

「相続は、死亡によって開始する」(民法882条)とあるように、戦後の民法では、相続ということは人が死ななければ起こりません。

中小企業の社長が息子に会社や財産を譲っても、それは財産を贈与しただけであって、相続させたわけではありません。

一方、戦前の民法では、人が死ななくても相続は起こっていました。

家督の相続ということで、長男が家の財産を全部引き受けて、一家の生活の面倒を見ていました。

遺産をめぐり「相続」が「争続」になることもあります。

戦前では財産は個人に属さず家に属していましたから、家長が死んでも家の財産は変わらず、家長の交代が起こっただけでした。

ですから、相続をめぐって家族の間でトラブルが起こることはあまりありませんでした。

しかし、終戦後憲法が変わりました。

新憲法が個人の私有財産を認める(第29条)とともに、法の下の平等原則(第14条)をうたい、権利や義務において、長男だから、次男だからという差はなくなりました。
 23年前に長野県で起きた殺人事件の被害者の母(小山はつ恵さん)が、時効になった犯人に面会し、深々と頭を下げて謝罪する犯人に対し、涙を流し「打ち明けてくれてありがとうございます。」と答え、「殺人者であっても、立ち直って欲しい」と話している、と言うことが、2003年10月10日、12日 読売新聞に出ていた。

 ここ数年、殺人事件で、愛する我が子を奪われた親が「早く犯人を死刑にして欲しい」と述べたりするのを、マスメディアを通じて何回か見聞きした。自分も子を持つ親なので、その気持ちが分からないわけではない。また、犯人を憎悪する気持ちを表現した方が、犯罪の抑止になる、という意見も分かる。また、被害者が小声で言ったことを、メディアが扇情的に書いたのかもしれない。それでも、「犯人を死刑にして」とは、「人を殺して欲しい」ということに他ならず、憎しみを社会に広めているようで、釈然としないものを感じていた。事件直後と二十三年も昔のこととでは、感じ方の違いがあるのは当然とはいえ、息子を殺された母が、犯人を励ました今回のこの報道に接し、感銘を受けた。

 はつ恵さんは、どうして息子を奪った犯人を許し、励ますことができたのだろうか。それが分かれば、人が一生の間経験する人間関係を豊かなものにする秘訣を手に入れることになるような気がする。

全くの推測だが、はつ恵さんの気持ちを考えてみた。

①犯人にも親がいる(いた)。犯人である息子を思う親の気持ちを考えてみた。

②人間を超えた人格的な存在(神仏など)の前では、同じ立場だと思った。

③自分も育つ環境によっては、殺人を犯す人生を送ったかもしれない。また、犯人も他の人生の局面では、善行をしたかもしれない。罪は、確かに憎いが、人や人生は定まらないもの。自分に人を裁く権限があるか、分からない。

④憎しみではなく、愛や許しを口にして、生きていきたい。その方が、自分も周囲も心豊かで、幸福になれる。

 日本では、主人の仇を打つドラマ(忠臣蔵等)が、毎年放映される。法律では、報復は許されないが、日本人の心情としては、仇討ちはいまだに美徳になっているようだ。戦争等で、家族離散の憂き目に遭い、運命と甘受しつつも、悔しさを芸術表現として昇化させ、恨の文化を作ってきた隣国、韓国などと好対照だ。

 私は、日本文化が好きだ。「わび・さび」の趣や美学、また、和を尊ぶ精神は、日本の誇りであり、世界に向けて発信していきたい。その上に、小山はつ恵さんのように、恩讐をも許し、愛する人が増えていけば、さらに、外国に誇れる文化が築かれるのではないかと思う。